読むこと。書くこと。話すこと。

僕は自分の文章が嫌いだった。

頭の中で筋道立てて考えるのは好きだし得意な方だけど、それを書いたり話したりすると支離滅裂な文章になる。話してるうちに自分が何について話しているのか話そうとしているのかが自分自身にも分からなくなり、挙句早口になって噛む。文章を書いても書いているうちに次々に話が広がっていきまとまりきらずヤマなしオチなしイミなしの文章に成り下がる。他のダイアラさんの書く文章がどれもこれも素敵に見える。やっぱり読書量の違いなのかな、という結論に至る。本でも読むか、と思って手に取るも一冊読み終わって次に行くまで数ヶ月or半年。この繰り返し。
思えば、小学生低学年のころは読書が大好きな子だった。毎週のように学校や区の図書館に行って制限ギリギリまで本を借りては帰り道で読む日々。本に夢中になって電信柱に激突したこともある。お気に入りは世界の神話の本とミヒャエル・エンデの本。本の中にいろんな世界があるのが好きだった。自分がその中に入り込む妄想だってした。だから「はてしない物語」を何回も読んだ。まぁ、それでも作文は苦手だったけど。
小学校中学年に上がり、小学校が人数過多のため、分校することになった。*1新設された小学校は綺麗で過ごしやすかったが、図書館の蔵書数は以前に比べると激減した。同時にこの頃から放課後に外でサッカーをすることが増え、反比例して読書する時間が減っていった。中学校、高校と進んでも本らしい本を読む機会は年に数冊といったペースだった。働き出してからも同じ調子。
こうして自分の書いた文章が誰にでも見られる世の中になって、改めて、本をもっと読んでおくべきだったなぁ、と思い、後悔する機会が増えた。自分の言いたいこと、書きたいことが人に伝わるのは一種の快感だし(例えそれが100%でなくても)、逆に伝わらないのは非常にフラストレーションが溜まる。上手な文章、分かりやすい会話をすることは健康にもいいんじゃなかろうか、なんてことまで考えてしまう。
思うに、文章の腕?というのは、自分の文章を嫌いなうちは決して上達しないんじゃないだろうか。自分の文章が嫌いだと、文章を書くことも苦痛になってしまう。そして文章を書かなくなり、久々に書いてもやっぱり下手で嫌い。という悪循環の無限ループに陥る。好きこそものの上手なれ。突き詰めるとそういうこと。なにより、自分が生み出したものなんだから自分が好きになってあげないと。そうすればもっと好きになるために上達したいと思うはず。
文章は自分を映す鏡。今はまだ曇っててぼやけてるけど磨き続ければきっといつか誰かを笑わせたり感動させたりする文章が書けるはず。


そんなことを考えてた水曜日の午後。

*1:余談だが、この間実家に帰った時、少子化のため元の小学校と合併するらしいという話を聞いた。えー。